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我が命の削り節。
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国土地理院のHPで浸水範囲概況図というのが見られるようになっていて、空撮とあわせて今回の地震津波による被害範囲が朱塗りされた地図があった。
空撮写真をルーペで分析しながら浸水範囲を確認していったようで、ウチの近所のように辛うじて津波が到達した「先端部」はまだ朱塗りされていない。
とはいえ、その広大な被害範囲にあらためて愕然とするものがある。
津波が川を遡上して内陸深く到達しているのも一目瞭然で、津波の際には河川に近寄らないという鉄則も頷ける。
あと、幹線道路一本隔てて運命が分かれたという場所が非常に多い。
食料の買い出しのために自転車で周辺をまわってみると、道路のこちら側は何事もなかったような景色なのに向こう側は壊滅状態だったりする。
これからは引っ越しの際にその土地の海抜までチェックしないといけないのだろうか。

徹底的に破壊された仙台の都市ガス製造拠点は復旧の目処も立たないらしく、新潟〜山形経由のパイプラインでの復旧が始まったようだ。
この厳寒にガスのない日々は辛くて仕方ないのだが、最悪なことに我が家のエリアはガス局の復旧予定表にすら載ってない。
どうやらおおもとの配管が、津波でメタメタになった区域と共有しているようだ。
そこが直らない限りはこの一体もガスを通せないのだろう。やれやれ。

今日は震災後初めて牛乳が店頭に並んでいるのを確認できた。
相変わらず卵も食パンも「一人ひとつ」という制限つきで、当面は牛乳もその扱いのよう。
殆ど毎日何らかの行列に並んでいるんだけど、今日はその行列に変化を感じた。
今までは被災者同士の譲り合いが暗黙の了解であったのに、今日は爺さん婆さんが行列の順番を無視するのを何度か目にした。
不自由な暮らしが続いてストレスが溜まるのは分かるけど、人生の先輩方がみっともない行動をするのは勘弁して欲しいところ。

原発関連のニュースを見ていると、どんなに楽観的に考えようとしてもあまりに絶望的で泣けてくる。
ついに屋内退避区域の放射線量まで一日で年間許容量を超える場所が出たとか。
それなのに政府は自主的避難を推奨とか、あきれるほど呑気なことを言っている。
自衛隊と警察を使って住民を速やかに避難させるべきなのではと思うのだが…地域住民の皆さんが気の毒で仕方ない。
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震災13日目。
昨日なにげなく避難所を覗いてみたら、避難民人口は著しく減っていた。
この付近のライフラインはガス以外復旧しているので、みんな家に戻ったのだろう。
サッカーJ1の地元チームの選手三人が避難所を慰問していて、子供達はサインを貰って大喜びのようだ。
選手の皆さんは自前の自転車で参上していたので、チームから派遣されたのではなく自主的に活動しているのかもしれない。

朝から何度も大きな余震がやってくる。
いずれも福島が震源のようで、原発事故やら風評被害やら本当に大変だろうと心が痛む。
我が身も被災エリアの外から見れば充分に同情される側なんだろうけど、津波で家財や家族を失った方々に比べれば幸せすぎるくらいだ。
ここからほんの数キロ海岸へ近付くだけで、まるで原爆でも落ちたような光景になる。
毎日何体ものご遺体が収容されているような状況。

未だにスーパーもコンビニも仮設販売で行列に並ぶ必要があるんだけど、さすがに行列が短くなってきた。
今までは開店の数時間前から並ばないとロクなものが買えなかったのに、今日はフラっと立ち寄って数分並ぶだけで、それなりのものが手に入った。
並ばなくて済むという当たり前の光景が戻ってくるのは、意外にそう遠くないのかも。
もちろん、それは被害が軽微で済んだ幸運なエリアだけの話なんだけれど。

今日は午後から天気が崩れるとの予報。
念のため雨合羽を着込んでJA直売店に並ぶ。
昨日は朝8:00から並んだおかげで物凄い行列の先頭付近に陣取れたけど、今日は10:00に到着。
でも行列は昨日の1/3にも満たない感じで、ほんの20〜30分並んだだけで練炭をゲット。
災害備蓄用というラベルの張られた15kg入りのダンボール。
なんとか自転車に積み込んで、フラフラしながら帰宅。
これで当面はガスの代わりに七輪が活躍してくれそうだ。

今日は避難所になっている小学校で、ボランティアによる炊き出しが始まっていた。
朝は確認できなかったものの、昼と夕方にカレー、豚汁、牛丼がふるまわれていた様子。
聞いたところでは、この炊き出しは行政が用意したものではなく飲食店の皆さんの善意によるものだとか。
ぎょーせー、いったい何してるんでしょう。



『震災記録:7〜8日目』--------------------------------
震災からちょうど一週間が経過して、ようやくPCとネット環境が復旧できました。
PC作業中に大地震が発生してそのまま停電したため、マシンのダメージが非常に心配でした。
いざ起動してみると、やはりいつもより時間が掛かります。
おまけになぜかブートキャンプ(MacでWinを動かすための仕組み)が認識されていませんでした。
こりゃまたWindowsOSの再インストールかなぁとウンザリしていたら、何かの拍子に認識されてアイコンも復活。
結果オーライとはいえ、かなり不安なPC作業の再開となりました。
やっと復活した連絡網を使って情報交換を行い、専門学校の校舎に被害が出たことも確認しました。
幸い、担当する在学生は全員無事とのことで、まずはひと安心。
大学からは数日前の日付でメールが届いていて、研究室への立ち入りは原則禁止とありました。
様々な薬品や微生物などを扱っているからでしょうか…なんか大学って凄いなぁと妙なところに関心。

この日は病院の定期検査の予約が入っていたのですが、どう考えてもそれどころじゃないのは明らか。
とはいえ、毎月の薬の処方箋を出して貰わないとヤバイので、とりあえず病院に向かいます。
いざ到着してみると、かなり大きな病院なのに未だに電気が復旧していませんでした。
自家発電で最低限の照明はついていますが、カルテを管理するPCなども全て落ちているため手作業で受付をしています。
基本的に重症患者以外は受け入れていないようでしたが、循環器など命にかかわる内容で通っている患者は例外的に受診できました。
薄暗い院内は静けさと慌ただしさが同居したような感じで、なんだか災害ドラマのセットを見ているような気分です。
いまにも廊下の角から江口洋介さんとか松嶋菜々子さんが出てきそうな雰囲気。
循環器外来で一時間ほど待たされて問診を受けると、薬を三日分だけ病院から直接処方するとのことでした。
いつもは院外処方で、処方箋だけ貰って病院向かいの薬局で薬を買っていたのですが、この非常時のため周辺の薬局からクスリを病院にかき集めたそうです。
当然、病院向かいの薬局は軒並み閉店状態となっているので、三日目以降のクスリは自力で薬局を探し出すよう言われました。
食料の調達さえ困難なのに、この大量の薬品を調達できるのか激しく不安で、もしクスリが切れたらどうなるかを尋ねてみました。
すると担当医いわく、3〜4日が限界ですねとのこと。
…なかなかスリリングなサバイバル生活であります。

震災8日目は、まるで駄目押しのような積雪と凍結の朝。
とはいえさすがに地震発生から一週間も経過すると、周辺各所のスーパーが仮設営業を始めていました。
近場の生協が10:00開店するのをネットで確認していたので、行列ができるのを想定して8:30から並んだのですが…丸々6時間も並ぶ羽目に。
その6時間のあいだにお米や卵を購入した先客が次々と帰って行き、ようやく自分の番になった頃にはカップ麺と魚肉ソーセージくらいしか残っていませんでした。
他には、切らしていた台所洗剤やラップ、お煎餅などを購入。
帰宅したらもう午後3時過ぎで、そのままバタンキューとなりました。
昨日の偵察で営業再開を確認していたJA直売店に早朝から並ぶ。
まつこと2時間、ようやく震災十日目にしてお米をゲット。
さすがに「白米よりソバがいい」なんてワガママは言ってられない状況。
なんと欲しかった練炭まで売ってたんだけど、それに気付いたのは一人当たりの購入個数制限分を買ってしまってから。
今回は諦めることにして、資金の補充のために銀行ATMへ向かう。
天気予報によると午後から明日に掛けて雨か雪とのことなので、天気の良い今のうちに周囲の店舗状況を偵察して回る。
すると、今までの偵察ルートから外れたところにあったローソンが三時間限定で営業しているのを発見。
なんと驚いたことに、唐揚げやフライドポテトといったホットメニューまで販売している。
しかも他のコンビニ仮設営業と違い、一人当たりの購入総量制限もなし。そのかわり各商品ごとに個数制限がついていた。
震災直後に水道とトイレを開放していたのもローソンだし、今まで自分的には順位の低かったローソンが一気にランクアップした感じ。


『震災記録:5〜6日目』--------------------------------
電気ガス水道のない日々にそろそろ限界を感じ始めた震災5日目。
水洗トイレのタンクに川の水を補充することを思いついて、家のすぐ近くを流れる川で水汲みをすることにしました。
幸いこの川の土手には、水面まで降りていける広々とした階段が整備されていたので、水汲み自体は問題ありません。
あまり大きなバケツがなかったので、トイレタンクを満たすには二往復ほど必要だったのですが、二回目に土手を降りている最中に川が逆流を始めました。
すぐさま階段を上がり様子を見ていると、数cmほどの小さな津波が川を遡っていきます。
まだまだ頻繁に余震が発生しているため、小さな津波もしょっちゅう打ち寄せているようでした。
そのミニ津波をやりすごして水汲みを住ませ、部屋に戻ると…水道が復旧していました。
これにはさすがに苦笑いしてしまいましたが、水を使えることを素直に喜びました。
さすがに手持ちの食料も底をつきはじめたので、何か貰えないかと避難所に行ってみると、居住区画ごとに割り当てられた教室に行くよう言われました。
該当する教室に行くと避難者名簿があり、係の人に指示されるまま記名して次の配給時間を尋ねると、午後4:30頃とのことでした。
それまで教室でボーッとしてる訳にもいかないので、ときおり到着する援助物資を体育館に運び込む作業を手伝ったり、周辺一帯の被害状況を偵察したりして過ごしました。
やがて夕方になって再び教室に戻ると、かなりショックなことが待ち受けていました。
なんと、避難者名簿に記名した人間が常に教室にいるかどうか、抜き打ちで点呼をとっていたそうなのです。
当然、記名してすぐに教室を後にした自分は点呼時には不在だったので、係の人に「あなたは居なかったので配給できません」と言われてしまいました。
これは恐らく、避難所で寝泊まりしている人だけが配給の対象であることと、そうでなくてもあっちこっちの配給場所を渡り歩いて配給品を不当に多く集める輩を排除する狙いがあるのだと思います。
確かに貴重な配給品を無条件でばんばん配る訳にはいかないとは思うのですが、こんな仕組みでは「避難民は避難所でじっとしてろ、復興活動もボランティアもするな」と言ってるも同然です。
今まで災害のたびにTVで流される避難所の様子を見ていて「なぜみんな何もしないで座っているのだろう」と疑問に思っていたのですが、こういう事情があった訳なのですね。
個人的には、こんな仕組みは明らかにおかしいと思います。
避難所の運営をしている人たちだけに過大な労働を科し、その数十倍もいる避難民はただ配給を待つばかりでは、復興どころか避難所の維持さえ困難になるばかりです。
しかも、前に避難所を訪れた際にオニギリ用のサランラップが不足しているというので、自分で保管していた新品のラップも避難所に提供していたのですが、それでオニギリ1個も配給を受けられないとは酷い仕打ちです。
結局、その教室では話にならず他の場所でオニギリを恵んで貰うことが出来ました。
やがて日が沈むと、校舎四階から見える隣駅のエリアに電気がついているのが見えました。
これにはみんな「きっと明日にはここも電気が復旧するね」と、久しぶりに明るい表情になりました。

震災6日目
朝、震災初日からずっと黒煙をあげていた港湾地帯の火災が見えなくなっていました。
ガス製造拠点が津波で全壊となって消火不能の火災が続いていたようでしたが、ようやく自然鎮火したのでしょう。
毎朝避難所には一日遅れの新聞が大量に届くので、それを貰いに避難所へ向かうと既に電気が復旧していました。
昨日復旧した隣駅方面から見ると、なぜか我が家を飛び越してその先にある避難所が復旧した形になり、ご近所さん共々「なんでここを飛ばすんだー!」と憤慨することに。
おまけに電気の復旧した校舎で携帯電話を充電させて貰っていると、昨夜までは自家発電機からの充電さえ許可されていたのに今日はダメとのこと。
なんだか踏んだり蹴ったりな一日でゲンナリしていましたが、日没後数時間してついに我が家のエリアにも電気が復旧しました。
久しぶりの照明は眩し過ぎるくらいで、しかも電気のない日々が長過ぎたせいで「照明をつける」という習慣を忘れており、ついつい懐中電灯をつけてトイレに向かってしまいました。
昨日の積雪は昼のうちに溶けて、今日は朝から雲ひとつない青空。
ガスが使えないので七輪が大活躍していたんだけど、そろそろ炭のストックが切れそう。
自転車で隣駅の近くにあるDIYセンターに炭を探しにいったら、朝9:30の時点で300mくらいの大行列。
昨日6時間も並んだばかりだから、さすがに今日は諦めて他のショップの偵察に変更。
すると、家から一番近いコンビニが仮設営業をはじめていて、運良くオニギリやらゴミ袋、シャンプーなどを購入できた。
気を良くしてあちこち周辺の偵察を続けると、居酒屋さんが店頭で自家製オニギリを販売してたり、JA農産物直売店も再開してたりと、徐々に流通・販売が復旧しはじめているのを確認。
とはいえどこも長蛇の列で、並ばずに何かを買えるようになるのが待ち遠しい。


『震災記録:3〜4日目』--------------------------------
震災3日目になると、さすがに避難所の運営も板に付いた感じになっていました。
しかしそれに反比例するように、肝心の物資が著しく欠乏しはじめていました。
これは単なる推測ですが、行政が想定していた災害避難民の数というのは、せいぜい市民の二割程度だったのではと感じています。
備蓄物資はたったの三日で枯渇し、各避難所では「食料はもうありません、避難所も一時休業します」という貼り紙が見られました。
避難所の運営にあたっていた皆さんも疲労の限界だったでしょうし、それは仕方ないことだと思うのですが、せめて避難民からボランティアを募って運営を引き継ぐとか、何らかの工夫をして欲しかったです。
避難所が機能しなくなったため、結果的に家にこもって後片付けをする時間が増えて作業は進みました。
片付けの過程で発掘できた缶詰などの保存食を集めてみたところ、もってせいぜい2日ぶん。
こりゃヤバイなぁと思っているところに、今回の震災では最も被害が軽微だった地区に住む彼女が食料を差し入れてくれました。
彼女の住む地区ではガス以外のライフラインも当日から復旧していて、倒壊家屋もみられず、スーパーの品揃えも豊富とのこと。
多少並ぶ程度で買えたのよと、新鮮な野菜と七輪、練炭を沢山もってきてくれました。
わざわざタクシーで乗り付けてくれたのですが、さすがにタクシー業界も燃料が枯渇していて、そろそろ営業できなくなるとのことでした。
電気のつかない日々というのは本当に日中が短くて、あっという間に夜がやってきます。
日が落ちてしまうとローソクか懐中電灯しか灯りがないため、ほとんど何もできません。
七輪で野菜炒めを作って夕食を住ませると、今日の作業でようやく片付いてきた自分の部屋に布団を戻しました。
今まで緊急避難部屋にしてもらっていた空き部屋に感謝。

震災4日目の朝は、とりあえず避難所の様子を見に行くことからはじめました。
昨日の貼り紙で避難所は数日間休業するとなっていましたが、体育館や教室に寝泊まりしている皆さんがどうなったのかも気になります。
避難所の中枢になっている体育館ステージに行ってみると、昨日までとは違う顔ぶれの方々が何やら難しい顔で打合せをしていました。
どうやら新しい運営陣が着任したようです。とはいえ物資は何もないようで、昨日はステージ上で情報を流していた大型TVも、発電機の燃料不足からか電源が切られていました。
震災当日よりもむしろ事態は悪化しているような印象すら受け、とりあえず飲料水の確保のために遠出して偵察することにしました。
大きな川を超えた隣町の一角にあるローソンに小さな行列があるのを発見し、様子を見てみると、店先の水道が出ているようで店長さんらしき男性が「ここの水、でます。どうぞ使って下さい」と呼びかけていました。
店内の商品は全て放出してしまったようでしたが、周囲の殆どのコンビニが固く扉を閉ざしていたのに反して、このローソンだけは扉を開けて水洗トイレまで24時間解放していました。
普段あまり利用したことのない店舗でしたが、この災害から復興したら常連客になろうと思いました。


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